~しなやかに したたかに~ 乳がんとのお付き合い
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
10回目
新年のリニアックは1月3日からスタートする。といっても通常の状態でないため、救急外来の合間に照射してもらうことになる。ムリに入れてもらったようで少々恐縮する。
今月から担当の研修医が替わり、夕方に新しい研修医が来られた。カワーではないの!「今度担当になりました大平です」と挨拶もきっちりだ。しかし「診察させて下さい」と、おもむろに聴診器を出して音を聴きお腹の触診を始めた。(まさか脂肪の厚さを測ったのではあるまい)まだスッキリしていない手術の傷跡には目もくれない。以前内科か?手つきが内科っぽいぞ。夜のミーティング(消灯後のおしゃべり)で、この推測が正しかったことがわかる。
13回目
週末が近づくにつれ、放射線のあとのダルさがヒドくなってくる。この日は夕刻まで頭が枕から離れなかった。夜になって、ふと見ると抜け毛でいっぱいだ。数えてみると20本以上!
このダルさも朝になれば楽になっているのが有難い。
17回目
この日、同じ病気でわたしの直前の予約時間の人の治療が終った。「ご卒業、おめでとうごさいます」と声をかける。私もあと2週間だ。
ダルさはだんだん酷くなる。お肌の状態が悪くなってきた。腋の下は赤黒いし、自慢?のデコルテラインも無残だ。
放射線は肌の窪んだ場所に強く当たるらしい。だから手術の傷跡などヒドイことになってきた。薬で症状を和らげることもできるが、最終的な仕上がりは何も塗らない方が良いとのこと、見た目が悪いだけで時折ムズ痒いぐらいだから、ガマンできないことはない。
18回目
ダルさとお肌の状態はかなり辛い。回診のときに田中先生は「あと何回?ガンバレ」と激励してくれる。も2/3は済んだんだ。
19回目
外出のときに胸の補正の必要がなくなて喜んでいたら、回診で「腫れている」と言われる。折角ボリュームが戻ったと喜んでいたのに。腫れたままでいてほしい。
20回目
お肌の状態が日に日に悪くなってきて、前夜から涙目になっている。痒みや痛みのせいではない。
朝、大平先生が「どうですか?」と来られたとき「弱気モードです」と訴え、「放射線、40グレイで勘弁してほしいぐらいです」と言うと、それは放射線科の診察のときに・・・(モゴモゴ)と逃げられた。
治療を途中で止めることができないのは百も承知で言っているのだ。逃げずに宥めてよ。私はワガママな患者なのだ。
その後、回診のときに田中先生は「痛々しいなー」と言われる。気持ちが滅入ると言うと「そっかー、落ち込んできたかー」と、これまたアッサリ言われる。「若い女性にとって、このお肌の変化は耐え難い」と言うと、礼儀正しく無視された。関西人なら違う対応があってもええやんか!
21回目
もうガマンの限界!皮膚の剥がれるピリピリした痛さに耐え切れず、薬を出してもらった。治療のない週末に少しでもお肌を回復させておこうという作戦だ。
22回目
今日も含めてあと3回!
照射部位はくっきり赤黒くなっていて、回診のとき「派手やなぁ」と言われる。前週の「痛々しい」より明るく聞けるような気がする。
朝、大平先生に薬の成果を聞かれ「ピリピリ感はマシ」と言うと、パジャマの襟元から覗き込まれた。思わず「そんなに覗き込まんでも(見せるがな)」と言うと「スミマセン」と照れたように笑ったのがカワイイではないか。
いつもは「照射部位を見たい」と顔に出るので察してお見せするのだが、退院も近づいたので「これも勉強」と敢えて黙っていたのだ。
最終回(25回目)
待ちに待ったリニアック卒業の日!
気分的には、20回目以降が辛かった。やはり25回は長い。
わたしの場合は皮膚症状が強く出てしまったようで、「これだけ色づいた人は久しぶり」と技師の方に言われる。(計算通りに照射できていることが一目でわかるので、ある意味安心だけど)厚かましく確認したのだが、私の若さと症状の強さは無関係らしい。照射後すぐに冷やしてコレだから、外来でしていたらどんなコトになっていたか・・・。
診察をしてもらって放射線科の治療は終了するのだが、担当医が検査中のため一旦病棟に戻ることにする。いつものように冷やしていると「ここまで来ちゃいました」と、放射線の担当医が来られたのでビックリする。まさか病室で卒業式をしてもらえるとか思わなかった。
病気が病気なので、リニアックは決して楽しい気分で通えるトコロではない。が、明るい雰囲気の中で治療を受けることができ、非常に有難かった。(スタッフが無愛想だったり冷たかったりしたら最悪だと思う)そのことにあらためてお礼を言い、「嬉しかったけれど、戻るつもりはありませんから」と言うと、「二度と顔を見ることがないように願とります」と返される。
放射線の初日に胸に照射の目印の線を描かれ、上から透明テープを貼られたのだが、そのテープを剥がすことにする。これは4箇所あり、皮膚症状の強い場所にある2枚は「剥がすと皮膚もついてくる」と警告されていた。それ以外の2枚を剥がす。ゴミ箱へ直行!テープの下にあった皮膚が喜んで呼吸を始めた感じがした。
翌日は出所の日。あ~娑婆だ!!でも10年の執行猶予は忘れちゃイケナイ。
退院後の外来は3ヶ月に1回ぐらいかなーと思っていると「頻繁に来ることないよ。1ヶ月に1回ぐらいかでね」で、次週の外来を予約しておくように言われる。私の感覚では「月1回」は充分「頻繁」なのだが。
とりあえず、1回戦は勝った。試合再開にはさせない。試合が再開すれば勝ち目はないいのだから。
PR
術後14日で放射線を始めることになる。まず放射線科の受診。レントゲンの撮影室が並ぶ入り口付近と違い、奥の方は人影もない。かなり以前のことだが、最も患者の死亡率が高いのは放射線科と聞いたこともあり、先入観として「イヤな感じ」がある。
この「人影のない奥の方」は、リニアックの治療室があり「治療を受ける人以外立入禁止」とわざわざお札が立っている禁断の一角だ。たま~にそこで待っている人を見かけることがあったが、大抵、目線が下向きで影が薄いというか・・・。私もその一人になるかと思うと益々イヤな感じだ。
存在すら気付かなかった小さな診察室で治療計画を立ててもらう。担当の医師はかなり若そうで、実際に照射を担当する技師の方も若そうである。先入観を覆すほど雰囲気は良い。
照射予定は2グレイを25回。年末・年始が入るので他の時期より期間が長くなってしまうが仕方ない。それでも12月29日と1月3日に治療を入れてもらうことができた。
「リニアック」って何?思わず聞いてしまった。従来のコバルトなどと違い、線源となる物がないらしい。発電機のようなものかしら。放射線の種類としてはX線になるとのこと。けれど普通のレントゲンなどで使うのとは線量がケタはずれに違うらしい。ちなみに「グレイ」は医療用の放射線量の単位で1グレイは100ラド。テレビ等でよく耳にする「シーベルト」は医療用以外に使う単位。統一した方が便利だと思うけど。グレイとシーベルトとの換算は可能だが、換算率は「学生の時以来使っていないから忘れてます」とのこと。
と、簡単に説明してもらったのだが調べてみると・・・
放射線の物理的な量を表す単位が「グレイ(Gy)」。放射線が生物に与える影響は、放射線の種類によって違うため、放射線が人体に与える影響の強さを表す単位として使うのが「シーベルト(Sv)」。たとえばα線は人体への影響が大きいため1Gy=20Svとなるが、X線やγ線は1Gy=1Svとなるようだ。
ちなみに・・・事故等で短時間に被曝した場合、致死量は公的には7Gyだそうでだ。だったら50Gyってかなりの線量だ。
が、医療用では照射部位が限局されており、何回にも分けて照射するので公的致死量の7倍以上の照射ができるのだ。イメージとして100℃のお湯がバシャッとかかるのと、45℃のお湯が1時間毎に3回かかるのと・・・って感じかな?
照射角度の計算のために胸のCTを撮ってもらい照射位置を決めるのだが、これが長い長い。右腕を挙げた状態でいるのがキツイ。もっとリハビリを頑張れば良かったと今更ながら反省した。
しかし・・・上半身の衣類を取って右腕を挙げ仰向きに寝ているってかなりマヌケな状態だ。この上、先ほどの医師と技師の2人組が、お腹あたりの両側からお互いの頭をくっつけるようにしたわたしの胸を眺めている状況は、まるっきり伊丹*三監督の映画のシーンのようだ。腕も痛いけれど笑いを堪えるのが非常に辛かった。言うまでもなく2人とも見るからに真剣だったので(実際、乳腺以外への被曝が少なくなるよう努めてくれていたのだ)そんな時に当の患者がゲラゲラ笑うワケにはいかない。やっと照射角度、位置が決まったらしく胸にマジックで線を書かれる。
次はリニアック室へ入って再確認・・・なのだが、微妙に合わないようだ。どうやら部屋の温度によっても変るらしい。技師&医師が又しても(文字通り)額を寄せ合って位置を決め、またマジックで線を書かれる。もう私の胸は真っ黒だ。
照射そのものは2~3分で済んで、この日のメニューは2時間がかりで終了!あと24回だ。夕方以降、妙に身体がだるい。
2回目
照射だけなら10分もかからなかった。朝10時台に放射線科へ行くのが仕事になる。この日も含めて24回、「治療を受ける人以外立入禁止のエリアで待っている人」になるわけだが、他からは見えない場所に職員の描いた絵などが飾ってあり、ナカナカ面白い。視線下向きで影が薄いなんてトンデモナイ!
照射後、病室に戻り濡れタオルで照射部位を冷やす。看護師さんが保冷剤を用意してくれているが、範囲が広く凸凹もあるので濡れタオルの方が扱いやすい。回数を重ねると、要領が良くなってくる。
タオルは濡らして4つ折・ビニール袋に入れて冷蔵庫で冷やしておく。(2組つくる)放射線科から戻るときに保冷剤をもらって、タオルの間に入れビニール袋のままで冷やす。温かくなれば交換。
この方法は楽だった。特に治療の中盤以降は、放射線科から戻る途中で歩くのも努力が要るぐらいダルくなっていたのだ。
さて2回目の照射が終った午後、ダルイダルイ。頭が重いしむかつくし、まるっきり二日酔い状態だ。(後日「放射線宿酔」といわれる状態だったことがわかる)
照射のない週末は、朝から気分良く楽に過ごすことができる。文字通りの「休日」に身体が喜んでいるようだった。
3回目
外は大雪だが病院は暖かい。雪の中を出かけなくて良いだけでも、放射線治療のために入院していられることに感謝しなければならない。
照射後のダルさは相変わらず。折角キレイにしてもらった胸だが、「放射線をすると、水が吸収されることが多い」という主治医の予言通り、やや凹んできたぞ~(ーー;)
6回目
週末に近づくにしたがって、ダルさからの回復に時間がかかるようになってきた。6回目予定のこの日は、翌日から三連休になる日でもあった。
4日前からの大雪はこの日も続き、朝から照明がチラチラしていた。何か怪しいな~と思いながら放射線科に行くと、妙に慌しい。「リニアックもMRも落ちまくり!最悪!!」などと聞こえてくる。PCの調子が悪くなったのかと察しをつけて、私の前の予約時間の方とおしゃべりをしていた。同じ病気で市内の他の病院で手術を受けた方だった。温存でドレーンを入れず、術後8日で退院されたそうだ。で、放射線に片道1時間半かけて自分の運転する車で通っておられる。しかもこの雪道を。もう頭が下がる。
予約時間を30分も過ぎたころ、「瞬間停電が何回もあったので、PCがイカれてしまいました。復旧は週明けになるかも・・・」と説明があった。ますます入院していた良かったと思う。
そして週明け、リニアック復活の朗報が入る。この日復活しなければ5日間隔が空くところだったので、心底ほっとした。
3連休の間に業者の方がデータの復旧まで頑張ってくれたらしい。停電でPCがイカれた施設はココだけではないのに。目に見えないところで、多くの人たちに支えられて治療を受けることができていると実感した日だった。
9回目
この日から年末年始のお休みになる。が、リニアックのお休みは1日遅い。
照射後の気分の悪さはマシになっているが、疲れやすさ、ダルさは酷くなってきている。シャワーのときに頭と身体を洗えないぐらいだ。だからシャンプーは朝の気分の良いうちに洗髪台で済ませている。
皮膚の症状は、ちょっと肌理が粗くなったかな?という程度。照射後に冷やすのが気持ち良い。真夏の外来だったら大変だと思う。
この日も照射後冷やしていた。とても人様に見ていただける格好ではない。すると福田先生が入ってくるではないか!「ちょっと腕挙げてみましょうか」って、この体勢で?今更恥ずかしがる年齢でも相手でもないが、少々アセッた。
(大晦日)
年末年始といえども外泊は2泊が限界とのことで、大晦日から家に帰ることにした。病状や治療の都合から病院で年越しする方も少なくない。同室の方は2人とも残留だ。帰るときに「良いお年を」と言いかけて絶句した。1ヶ月前に入院したばかりの病院で迎えるお正月が「良い」なんて言えない。
「来年は今年の分も良いことがありますように」
CT・骨シンチ以後、急に遠隔転移が怖くなった。1週間入院・手術を遅らせたのがとんでもない間違いのような気がしてきたので、病棟のベッドに着いたときは正直ホッとした。
主治医は田中先生。イケメンでなく残念だが、同室の方によると「笑顔に癒される」とヨン様以上の人気だそうだ。研修医の福田先生も担当医として紹介される。(こちらもイケメンでなくて残念)
今日のメニューは急遽入った心エコーのみ。はっきり言ってヒマだし、入院したものの病人という気もしない。
ヒマをもて余したまま手術前日になる。昼間は特にすることもないので、外出許可をもらい家でゆっくり入浴する。「娘と一緒にお風呂に入りたい」と言ってもらった外出許可だが、よく考えてみると当の娘は学校から帰っていなかった。
夕方、手術室の看護師さんが説明に来られる。術前の処置から術後の予定まで、とてもわかりやすい表まで用意してある。
夜、田中先生から手術の説明を受ける。気になる遠隔転移については特に話がなかったので、大丈夫だったんだろうと勝手に解釈する。(もっとも遠隔転移があれば、手術の話にはならないだろう。)基本的に温存。但し広い範囲で断端に癌細胞が見られた場合は、先生のお薦め通り全摘でお願いする。医学でなく国語の問題なのだが、”広い範囲で断端陽性”というと、温存のガイドラインにある”広範な乳管内進展がない”にひっかかってくるような気がするのだ。温存の場合、6cmも刳り貫いたあとのシルエットが気になるが、水を入れて上げ底すると聞き目が点になった。「水」ってねぇ・・・。
麻酔科医は「若いメガネをかけた男前」か「若いメガネをかけていない男前」のどちらかと聞いていたので、密かに期待していたのだが、「麻酔科医の都合がつかないので、麻酔は外科でします」とあっさり言われる。「男前」にお会いしたかったなー。
手術当日。手術は10時前ということで、手術前恒例の大嫌いな処置のあと、着替えて記念写真などを撮っているうちに、お出かけの時間になった。
意識鮮明なまま手術室に入り、偶然大好きな曲「カバティーナ」が流れていたので耳を傾けていると・・・目蓋が重くなってきた。前回の手術ではすぐに意識がなくなったのに、身体が動かなくなって・・・息苦しくて気がつくと、呼吸できていない!!筋弛緩剤から先に効き始めた?文句を言おうにも声が出ないし身体も動かない。「ここで死んだら化けて出てやるー!」パニックになりかけて気付いた。各種モニターは取り付け済みなので、呼吸できないことはわかってもらえるんだ。化けて出るのは中止して極楽往生を目指すことにする。でも、意識があるうちに手術が始まったらイヤだなぁ・・・と思っているうちに、目の前に金色の光が広がり、その光に向かって意識が跳んだ・・・
「済みましたよ。お疲れ様でした」(わたしは寝ていただけ。”お疲れ様”はあなた方でしょう)言いたいけれど声が出ない。辛うじて出せた言葉は自分でも思いがけないものだった。「残せました?」「大丈夫。予定通りにできたから」胸と腋に激しい痛みを感じた。痛む場所から全摘でないことはわかったが、追加切除はされたのかどうか・・・。確認したいけれど声が出ない。
その後、鎮痛剤を使ってもらったので傷の痛みは殆ど感じなかったが、右肩が非常に痛い。撫ぜるか押さえるかすると軽くなりそうな痛みだが、生憎左手は血圧計と点滴で動かせない。右手はもちろん固定されている。
夜、11時半ごろ来られた福田先生に「押さえたら楽になりそうなんですが・・・」と言うと「あぁ、良いですよ」・・・って、そういう問題ではない。この血圧計、何とかならない?
付き添う気満々だった親には「大丈夫だから」と帰ってもらったのだが、とても不安になってきた。
背中が痒くなったらどうしよう?
長い夜が明けるとウソのように楽になった。掻けないところが痒くなることもなく、鬱陶しい尿の管も取れて食事もいきなり普通食。でも右手が挙がらないので食べにくい。
傷を見るのが怖かったが、ガーゼ交換のときに覗くと意外なほど小さい。ガーゼ交換に来られた三木先生にそう言うと「田中先生が頑張ってくれましたから」と言われる。
その三木先生が麻酔を担当されていたのだが、後から感想を聞きに来られた。特に意識のなくなる直前の状況について。思わずニヤリとしてしまった。折角なので正直にお話する。モチロン化けて出ようと思ったことは抜きにして。すると「もっと良いタイミングで眠らせてあげれば良かったんですが・・・スミマセン」と言われる。ここまで直球で来られると非常に好感が持てるのだが、こんなに正直で良いの?三木先生。
手術から2日後、リハビリを始めるように言われる。田中先生はリハビリが進みやすいように、痛くて90度も挙がらない腕を引っ張ると言われる。「痛そうだからイヤです。遠慮します!ご辞退申し上げます」キッパリ言ったのだが、居並ぶ先生方の失笑をかっただけだった。マンモといい、この腕引っ張りといい、まるで中世の拷問だ。
この日、点滴も取れた。卵巣を摘出したあと、きっちり食事が摂れていたのに2週間も点滴されていたのと大違いだ。翌日2回、抗生剤の点滴があるので針は残してあるが、点滴スタンドを連れて歩かなくて良くなった。
術後1週間。朝の回診のときはそんな気配は全くなかったのに、昼前にいきなり「ドレーンを抜こうか」ということになった。腋から出ているドレーンは、廃液パックにつながっていてベッドから離れるときは、このパックをポシェットに入れてぶら下げる。このポシェットは財布がちょうど入る大きさなので、売店に行くときなど密かに便利と思っていた。だがドレーンの入っている鈍い痛みは、とりたてて言うほどのものでもないが”しんきい”のだ。
だからドレーンを抜くのは歓迎なのだが、抜いた後も滲出液が溜まり、3回もそれを抜くことになった人もいた。後から抜くのもとても痛いようで、そんなことならドレーンの方がマシだし・・・それにドレーンを抜くのも痛そうだ。
「痛そうですね・・・イヤだなぁ・・・」控え目に言ったが、取り合ってもらえるワケがない。「ハサミ」と声がして「痛ッ!!」一度叫ぶと「ハイ取れました」「え!もう?」「そう、期待に反して悪いケド」
往生際は悪かったけれど、取れてみると非常に身軽になったと思える。抜いた後は少々痛いけれど、数日で治まるに違いない。
術後10日目。身軽になったのでダメモトで外出をお願いしてみると、時間制限なしでアッサリOKだった。8時間ほど家に帰る。
ピアノでハノンを30分。エレクトーンを断続的に1時間半ほど弾くが、やはり右腕の痛みと筋力が落ちているので集中できないし、音のコントロールもしにくい。リハビリをしっかりしなければと思う。
リハビリといえば研修医の福田先生はウマイ方法を思いつかれたようだ。毎朝、腕の挙がり具合をチェックに来られるのだが、わたしは上に挙げるときに肘を曲げたり・・・と誤魔化しに余念がなかった。それがバレて以来、「腕、挙げてみましょうか」と言いながら自分の手で支えるふりをして、しっかり引っ張っているのだ。気付いたときは「ヤラレタ!」と思った。
術後14日目。傷のテープなどが取れてスッキリ!する。水で上げ底をした仕上がりはナカナカのもので、傷跡もとてもキレイ。まさかこれほどの仕上がりになるとは思わなかった。この水が吸収されずに残りますように。
病名まで知ってお見舞いに来てくれる人の視線は胸にくるのだが、何も補正していないと言うとビックリされる。非常に良い気分だ。田中先生に「満足度は高い?」と聞かれ「モチロンです」と答えると「宣伝しといてね」
宣伝って言われても・・・誰に何てすれば良いのだろう???
さて気になる成績表(病理結果)は術後3週間で出た。ハッキリ言ってガン告知以上にショックだった。
「ホルモン(-)」これは術後の全身療法としてのホルモン治療がほぼ無効であるだけでなく、再発リスクも(+)と比べてやや高くなるということらしい。ホルモン療法は5年程度続き、子宮体ガンのリスクも増えるので、子宮体ガンの痛い検査が大嫌いな私にとっては有難い話かもしれないが、「予後」で見ると喜んではイケナイ。
良い材料はリンパ節転移がなかったことで、ステージとしてはⅠになるが・・・他の要素も余り良くなかったしな・・・。ホルモン療法ができないので、標準治療では化学療法推奨になるが、田中先生は化学療法もイチオシではないようだ。それも無駄ではないが、再発率を「気持ち」下げる程度のモノなので、副作用対効果を考えると何もしなくて良いと言われる。「3ヶ月毎ぐらいに元気な顔を見せてもらって、それが10年続いたら治ったことになるから」と。その「10年」が無事に過ぎれば良いのだけれど。
考えてみれば「無治療も治療のうち」化学療法をせずに体力・気力を蓄えて免疫力を上げるように心がければ、抗癌剤でヘロヘロになるより良い結果が得られるのかもしれない。
絶対にあと30年は生きていたい。元気で。でないと、娘の20代は祖父母の介護で終ってしまい、わたしの墓参りにも来てくれないに違いない。
細胞診の結果のわかる日。家族と来るように言われたワケではないが、そのような雰囲気だった。が、単身で乗り込むことにする。第一、まだ家族にも言っていないのだ。早く知らせても心配する以外何もできないだろう。家族に言うのは診断が確定し、状況や今後の日程がはっきりしてからでも遅くない。
覚悟を決めていたので「何でも遠慮なく仰ってください」と最初に言ったのだが、躊躇いがあったのは田中先生の方だったようだ。「患者さん向けのパンフレットが・・・」と探し物を始められ、出てこなかったので(最初からなかったのかもしれない)意を決したように言われた。「やはり出ました。乳ガンです。で・・・治療を受けてください」”やっぱりね”という感じでショックはなかった。むしろ「判定不能」でなくて良かった」とさえ思った。
それでは・・・と、「vol-net」で見つけた「医師の説明を聞く際のチェックリスト」を出してメモをとりながら、じっくり内容を聞くことにする。医師は少し驚いたようだが「そこまで準備されているのなら」と詳しく話してくれた。
細胞診の結果は「浸潤性乳管ガン」しこりのサイズやマンモ、エコーの所見も併せて聞く。ステージはやはりギリギリのⅠ。もっとも微小な転移については不明なので「現段階では」という注釈付きだが。(思っていたより悪くない。ステージⅡbまでは想定の範囲内だ)
6日後の手術を提案されるが困った。見たい映画の封切が8日後・・・イヤイヤ仕事の都合がつかない。職員3人の出先職場で、係長は心調を崩して休職しているのだ。
予定を1週間延ばしてもらう。入院は手術の2日前とのこと。温存か全摘かについては、手術の前日までに決めれば良いと、考える時間をもらえたのは有難かった。
とはいえ、いくら何でも術式を決めるのが手術の前日では困るだろうと、3日間考えて心を決めた。が、少々疑問があるので、田中先生にその点を確認してからハッキリ決めようと思った。
わたしが天秤にかけていたのは、温存した場合の残した部分への再発の可能性と、全摘した場合のダメージだ。残した部分への再発が転移へとつながるのか、それとも転移を前もって知らせるサインになるのかがわからない。転移を知らせるサインなら、温存した方が便利そうだ。温存しようが全摘しようが、転移するものは転移する。最終的な結果に変わりないということであれば、温存した方が良いのだが。
温存の場合しこりの周囲2cmで切除ということで、だいたい直径6cmが切除範囲になる。それでは私の可愛らしいオッパイでは全摘と大差ないではないか。それに温存と放射線はセットになるので、放射線の影響も気になる。いっそ全摘して、あり余る腹肉で再建してもらえば一石二鳥なのだが、それでは仕上がりが余りキレイにならないとのこと。再建にはシリコンがおすすめのようだ。う~ん、それはちょっと抵抗があるなぁ・・・。
決めた。温存してもらおう。
私は今まで帝王切開を含めて2回、婦人科系の手術を受けている。帝王切開のときは傷跡は残って当然と思っていたので、特にリクエストしなかった。不妊に悩んでいた私は、結婚8年目にして出産にこぎつけただけで充分だったのだ。けれど、とてもキレイに縫ってもらったので今では本当にわからないぐらいだ。時が経つにつれ、それがとても有難く思えてきた。
その数年後の片側の卵巣摘出は、出産とは別の病院だった。このときは悪性が疑われ、また私の状態も余り良くなかった。普通なら傷跡の仕上がりに注文をつけられるような状況ではない。が、「帝王切開の跡のように、自慢できるぐらいキレイにしてください」とリクエストをした。すると「形成で習ったばかり」という埋没縫合で仕上げてくれ、かなり派手に縦に切られたけれど、これも今では”ちょっと太めの妊娠線”ぐらいにしか見えない。(大方の予想に反して、病理の結果も悪性ではなかった。)
味をしめた私は、今度もお願いした。「”先生にこんなにキレイにしてもらった”と自慢できるようにして下さいね」
温存なら放射線も含めて2ヶ月~3ヶ月は仕事を休みたいので、必要な連絡などをしているうちに、自分は本当に多くの人に支えてもらっているということがわかり、ガンの内示を受けて初めて泣いた。嬉し泣きである。ガンと知って嬉し涙というのも妙な話だ。
しかもタワケたことに、そのことに気付かせてくれた病気に対する感謝の気持ちまで出てきた・・・アカン、こんな善人型の思考回路では早死にする。「佳人」の私はタダでさえ早死にリスクが高いのだ。あと30年生きるために「憎まれっ子」になるヨと宣言する。何故か皆、「佳人」のところで突発的に難聴になるようだ。
さて入院までにもう一度病院に行かなければならない。造影剤付きCTと骨シンチのためだ。
さてCT・骨シンチの日、CTの造影剤で吐き気がすることがあるとかで、朝ゴハン抜きだ。放射線科はかなりの盛況で予約時間より1時間近く過ぎて名前を呼ばれるが・・・問題発覚。造影剤使用の同意書がついていなかったのだ。サイン一つで済むものではなく医師と作成することになっているとかで、外科に行く。すると初診のイケメン・佐藤先生だ。(チキン・リトルにちょっと似ている)私の顔を見て狼狽したように「来週・・・入院ですね」同意書ができると、とってつけたように「お、お大事に・・・」と言われる。何も振られた恨み言を言いにきたワケではないワイ!。
CTの前に骨シンチのための注射の時間になった。安全性に問題ないとわかっているけれど、放射性物質の注射って余り気持ちの良いものではない。
お待たせのCTは、上半身だけ金具のない服でと言われる。じゃあスカートOKね。本当かな?念のため確認したが大丈夫とのこと。・・・造影剤が入ってしばらくすると喉の奥でヨード系の味がしてくる。それを味っていると「あ、スミマセン・・・スカートが・・・」思ったとおりだ。横になったまま、スカートだけずらせてもらうが、いつもの防寒重視の下着でなくて助かった。
骨シンチまで少し時間があるので食事を摂るが、少しむかつく。痛みはないが、下痢もしている。30分ごとぐらいにトイレに行くが、検査の間はどうしよう?でも何とか治まって助かった。検査中に確認をとってもらったようで、下痢については造影剤の影響とは考えにくいとのこと。だったら骨シンチの薬剤かな?今度骨シンチ単独にしたら確認できるかな・・・などと考えながら会計に行くと・・・2万円超え!!カードが使えたので良かったが、本日最大のショックだった。
2004年10月、当地は台風で大きな被害を受けた。幸い我が家は断水した程度で済んだのだが、被災後の何週間か仕事が大変忙しくなった。乳ガン検診の受診票が届いていたのだが、忙しさのあまり忘れていた。そして・・・。
翌年の夏が過ぎた頃、右胸のしこりが妙に気になり始めた。コロコロした感じではなく、根を張ったようになり痛みもある。「ガンは痛くない」という印象があったのだが、このしこりの感触はどこか不気味だった。また、夕食後横にならずにはいられない「だるさ」も気になった。悩んでいても仕方がない。安心するなら早い方が良いし、安心できないのなら尚更早い方が良い。
乳ガン検診の時期だったが、検診を受けても「要精検」になるに違いないから、普通に外来を受診する方が早く診断がつくだろうと考えた。どの病院に行くか少し迷ったが、とにかくガンの治療ができて、乳ガン検診のできる病院なら間違いなかろうと、子供がよくお世話になる総合病院に行くことにした。
小児科の混雑を思うと、外科は拍子抜けするぐらいの待ち時間だった。問診票に記入して数分後、診察室に入ったが座る間もなくマンモを撮ってくるよう指示された。医師はナカナカのイケメン風だったので、もっとよく眺めていたかったのだが患者の身ではそうもいかない。
マンモ(マンモグラフィー)は、乳房のX線撮影で、オッパイをプラスチック板で挟んでノシイカ状態にして撮影する。とても丁寧に挟む理由や着衣で撮影できない理由を説明してくれる。接遇はハナマルだ。傍らのCDラジカセから穏やかな音楽が流れれおり、これで美味しいコーヒーがあれば・・・と不謹慎なコトを考えたのがいけなかった。
まず上下に挟むのだが、コレが痛い。噂に違わず痛い。「身体に力が入ると余計痛いから深呼吸しましょうね」と優しく声をかけてくれるのだが、そう言いながら締め上げている。「痛いですね。これぐらいにしておきましょうね」と言いつつ、しっかり締め上げている!
やっと撮れたと思うと、「ちょっと写りが良くなかったので、もう一枚撮らせて下さいね」と言われる。(ヤバイ)頭の中で警戒信号が一つ灯ったが、「締め上げの刑」の痛さが不安感を消していた。
縦方向に挟んでの撮影は、上下挟みほど痛まなかったが、終ったときは足がヨロヨロするほどぐったりしていた。
再び外科に行くと、イケメン医師は軽く触診しながら言った。「あぁ、ここに・・・あるね」主語を省かれたのが気になる。愛想も悪いが、検診では余り触らない鎖骨のあたりや頚のリンパ腺まで触るのも気に入らない。そして「次、エコーね。月曜日。」その間、全く私の顔も見ない。ちょっと~、それだけ?再び警戒信号が灯った。今度はハッキリと。大抵、心配することがなければ写真を見せて説明がある。どうも挙動不審だ。
診察室の扉には「医長 佐藤」と札がかかっている。全くのタケノコ医師で、自分で判断できないというワケではないようだ。ということは・・・。
・・・本当なら忙しいので余り仕事を休みたくない月曜日。けれど、前回のイケメン医師の期日指定は異議申し立てができそうにない響きがあった。この間にネットなどで「乳ガン」を調べる気にならなかった。調べるのは診断が確定してからで良い。ガンには敏感な家庭に育ったので基本的なことはわかっているつもりだし、診断名を聞く前にあれこれ調べるのは不安になるばかりだ。
暗いエコーの部屋で、ベッドに横になっていると、見知らぬちょっと年配風の白衣の人物が奥からやてきた。「この人、誰?この前のイケメンは?」疑問符が渦巻く中、「ちょっと触らせて~」と気楽そうに声をかけられる。どうやらこの人物も医師のようだ。
触診も数日前のイケメン医師より痛くなかったが(それでも痛かったが)、しこりに触れると「あぁ、コレやねぇ」とまたしても主語抜きだ。主語には「しこり」でなく別の言葉が入るようだ。しこりの周辺は軽く触れても痛いので、エコーでぐいぐい押されると、とても痛いに違いない。覚悟を決めたが、拍子抜けしたことに殆ど痛まなかった。
エコーをしながら「ご結婚は?」と尋ねられる。「キターーーー!!」盛大に警戒信号が灯りサイレンの音まで聞こえるようだ。この家族調査の目的がナンパでないのは明白だ。良からぬモノが見えたに違いない。ちなみに私は昔結婚していたが、今は花の(少し萎れているが)独身で子持ちだ。続いての「お子さんは?」の問いに答えたあと、我慢できずに聞いてみた。今の段階ではハッキリ答えてくれないだろうけど。「余り・・・良くないものが見えているようですね」数秒の間があった。この数秒で私の疑念は確信になった。そしてこんな言葉が聞こえた。「・・・悪性を思わせる所見がありますねー」
まさかこんなにアッサリ言われるとは思わなかった。(が、私は白黒ハッキリさせたいタチなので有難かった)続けて「温存できますよ」ときた。ガンは確定したようだ。「後顧の憂いのないようにスッキリ全部摘ってもらっても良いんですケド」と言うと「いやいや乳癌学会の指針では・・・」と温存のガイドラインの説明が始まった。これは事実上の告知ではないか。こんなオッパイペロン状態で、名前もわからぬ人物から告知(の内示)を受けるとは・・・トホホホ・・・。
予想していた結果である。「参ったな」と思ったが、口に出すと病気に対して「参りました」と白旗を上げるような気がした。代わりに「キツイな」と呟いてしまう。厳しい試練だけれど必ず勝ってみせる。謎の人物は何も言わない。正体不明の人物だけれど(後日、外科部長と判明)私の宣戦布告を聞いてもらう。乳ガンは再発せずに10年経つと「治った」ことになるらしい。だから「あと30年は元気でいたいんです」と。
あと30年生き延びるための条件はそろっているだろうか。「リンパ腺は大丈夫ですか?」と尋ねると「今、診てるけど・・・かなり調べてきたんですか?」と怪しまれる。よくよく考えてみると「30年」だの「リンパ腺」だの口走る前に「癌ですか?」と聞き返すのが一般的だったように思う。ついでにもう少し取り乱した方が自然だったのかもしれない。
などと考えているうちに、エコーが終わり次のメニューが示される。いかにも痛そうな「穿刺吸引細胞診」だ。「針を刺してズリズリして細胞を採りますからね~」と気楽そうに言われる。この痛いオッパイに針を刺すなんて、考えただけでも倒れそうだ。「準備ができるまで外科の前で待っていて」と言われる。
かなり呆然としながら(それでも香りを楽しみながら)外科の前の待合室でコーヒーを飲んでいた。ブラックの濃いの。すると白衣のお兄様方が4,5人わらわらと集まってくる。「準備ができるまで」というのは「ギャラリーが集まるまで」という意味らしかった。
「痛いのイヤです~できれば遠慮したいです~」と最後の抵抗をするが「出産を経験して人なら大丈夫」と言われる。だが私は帝王切開しか経験していないのだ。全然”大丈夫”ではない。
散々怖がって文句を言ったが、針を刺されるときの痛みは殆どなかった。普通の注射より痛くないぐらいだ。ヤレヤレこれなら楽勝と思っていると、痛いしこりの部分をつまんでズリズリされる。これが痛い。いやマンモよりマシかな?ちょっと~またズリズリするの~もう限界!限界だっちゅーの!!(さすがに声には出さなかったが)心の中で叫んでいると、やっと針を抜いてもらえた。医師は「ちゃんと採れてる♪」と嬉しそうというか楽しそうだ。思わずしっかり見てしまう。生タラコをほぐして黄色くしたようなモノが、薄い赤色の液体とともに入っている。本当にちゃんと採れているんでしょうね。こんなに痛い目に遭って「判定不能」なら二度と来ないからね。
この細胞診の結果は4日後ということだが「今の段階では殆ど黒。しこりの大きさは1.8cmぐらいなので、ギリギリでステージⅠ」と言われる。ということはリンパ腺への転移は見られなかったようだ。しかし、この段階で「ステージ」なんて言葉が出るかなぁ・・・
4日後の予約票を見て初めてこの医師の名前がわかる。田中先生だ。
カレンダー
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
リンク
フリーエリア
最新TB
プロフィール
HN:
papagena
性別:
女性
職業:
団体職員
自己紹介:
次々に訪れる
人生のイベント
だから生きているって
面白い♪
イヤ~なことも
前向きに受け止めて
しなやかに したたかに
過ごしたい
★西日本在住
★40代前半
☆本と音楽が好き
☆家事はキライ
☆蚊とヘビと痛いのは
大の苦手
☆好きな場所
東京ディズニーシー
人生のイベント
だから生きているって
面白い♪
イヤ~なことも
前向きに受け止めて
しなやかに したたかに
過ごしたい
★西日本在住
★40代前半
☆本と音楽が好き
☆家事はキライ
☆蚊とヘビと痛いのは
大の苦手
☆好きな場所
東京ディズニーシー
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析