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~しなやかに したたかに~  乳がんとのお付き合い
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退院後約1ヶ月で仕事にも復帰したが、本調子とは言えない。「気のせい」だけではないようだ。
 
まず食欲がない。すっかり胃が小さくなってしまったようだ。少し痩せたかったので有難い話だが、余りムリがきかなくなったように思う。肩の痛みは相変わらず。右手で背中が掻けない。痛みのため肩の動きがやや制限される。
 
とても気をつけていたのに、復帰後1週間そこそこでインフルエンザに罹ってしまった。予防接種をしていたので軽く済むはずだが、39℃の熱と節々の痛さ、喉の痛みが強く、3日目には頚のリンパ腺(右側)が腫れてきた。4日目、リンパ腺の腫れは引いてきたが、声はとてもハスキーになっている。
 
退院後7週目
インフルエンザが治まると、今度は胸の傷がおかしくなってきた。ちょうど田中先生の外来の日なので受診する。傷がちゃんと塞がっていなくて中から滲出液が出てきていた。術後3ヶ月以上経って漏水なんて・・・(~_~;) しかも週末は温泉に行こうと思っていたのに。
 
滲出液を搾り取られたときは随分痛くて、恥ずかしげもなく騒ぎ立ててしまった。田中先生は「放射線の皮膚炎の痛み」と言われるが、皮膚の痛みではない。乳腺が硬くなっているので、押さえると痛いのだ。それをギュウギュウされるのだから、あの拷問のようなマンモ撮影時の痛さに似ている。
 
この漏水は、わたしもショックだったが、田中先生も「この期に及んでなんでかな~!?」と悔しそうにしておられた。とりあえずは様子を見るしかない。
 
心配していた傷の感染は強く起こっていないようなので安心する。が、感染しやすい状態なので抗生剤を出してもらう。消毒が毎日通うのも大変だろうから、家できっちりしておくように言われる。傷を見るのも怖いのに自分で消毒できるかなぁ。夕方、行き着けの外科も標榜している医院に花粉症の薬をもらいに行った。ついでに聞いてみると「消毒ぐらいするよ」と快く言ってくださったのでヤレヤレだ。
 
この医院には、近所の強みで入浴後に行くことにした。毎日プロに傷口のチェックをしてもらえる安心感は大きい。
 
そして漏水がわかってから4日後の田中先生の外来。診察室に入るなり、「ちょとだけ切って縫い直したら早く治る」と言われて凍りつく。「痛そうな案ですね・・・ご遠慮したいです」「いやいや痛くない、痛くない」(そりゃ先生は痛くないでしょーよ!)
 
だが、きっちり処理してある傷を診て方針が変ったようだ。毎日の滲出液の量の変化を聞かれる。(言われるまでもなく注意していたのでスムーズに答えることができた)その減り方が順調なこと、傷口の状態から、中で感染を起こしているとは考えにくいということから「このまま傷が塞がってくれたら、僕も嬉しい」と言われる。(わたしも嬉しいです)
 
もうシャワーぐらいOKと言われるが、滲出液が少なくなった2日前からは胸の下まで浴槽に浸かっていたし、シャワーもしていたのだ。翌日が温泉で1泊する予定だったので、厚かましいと思ったが「明日、温泉に行くつもりだったんですけど・・・」と言ってみる。通らばリーチ!だ。「う~ん・・・」首を傾げられるので、畳み込むように「ここまで(胸の下まで)しか浸かりませんから」と言うと、「いや・・・別に(防水と後の消毒をしっかりすれば)かまわんかなぁ・・・」と意外な答えが返ってきた。「この際だから美味しいものを食べてきて」と言ってもらったが、実は来週はTDRに行く予定なのだ。・・・怖くて言えない。
 
退院後8週目
傷の状態を診てもらうために前回から1週間後の受診。結局週末は温泉でゆっくり過ごしたのだが、(温泉に行ったから言うワケではないが)温存を勧めてもらったことを最近しみじみと有難く思うようになってきた。術後の形は、残念ながら放射線と漏水のおかげで健側と比べてかなり小さくなってしまったが、それでも傷跡の窪みを除けば、ラインそのものは余り崩れていない。
 
現在、腫瘤を刳り貫いた部分が空洞になっているらしいが、表面の傷そのものは塞がっていきそうだ。田中先生は「傷が塞がるように祈っています」と言われたが、祈るだけ?すると会計で支払った260円は祈祷料か。
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退院後約10日・外来受診の日
全身のだるさ、疲れやすさは随分マシになっている。ただお肌の状態がヒドイ。リニアック終了時、赤くなっていた部分は茶色に、赤黒くなっていた部分は皮膚がポロポロ剥がれてきている。が、ピリピリした痛みは軽くなってきている。ムズ痒さは相変わらず。照射部位全体がカサカサしている。
 
退院後約20日
皮膚は21日に入れ替わるというが、その通りだった。キレイに一皮剥けたあとは、最初と比べるとかなりマシなお肌になっている。が、軽いところでも茶色のマダラで他は茶色になっている。ピリピリした痛みはなくなったが、ムズ痒さは少々軽くなっただけで続いている。
 
日常生活がリハビリになるだろうと思い、腕や肩のストレッチをさぼっていた。気がつくと入院中より腕や肩が動きにくくなっていて、やはり毎朝のストレッチは大切だと思った。
 
退院後約30日・外来受診の日
皮膚の状態は10日前と余り変らない。全体に色が薄くなったかな?という程度。ただ傷の周辺の皮膚が赤く、組織も硬くなってきている。瘢痕になっているのでは?ということで、心配するようなものではないらしい。
 
今も、刳り貫いた断端にあたる場所が時折キュン!と痛む。が、ヒドイきり傷は2ヶ月や3ヶ月痛むので当然なのかもしれない。
 
10回目
新年のリニアックは1月3日からスタートする。といっても通常の状態でないため、救急外来の合間に照射してもらうことになる。ムリに入れてもらったようで少々恐縮する。
 
今月から担当の研修医が替わり、夕方に新しい研修医が来られた。カワーではないの!「今度担当になりました大平です」と挨拶もきっちりだ。しかし「診察させて下さい」と、おもむろに聴診器を出して音を聴きお腹の触診を始めた。(まさか脂肪の厚さを測ったのではあるまい)まだスッキリしていない手術の傷跡には目もくれない。以前内科か?手つきが内科っぽいぞ。夜のミーティング(消灯後のおしゃべり)で、この推測が正しかったことがわかる。
 
13回目
週末が近づくにつれ、放射線のあとのダルさがヒドくなってくる。この日は夕刻まで頭が枕から離れなかった。夜になって、ふと見ると抜け毛でいっぱいだ。数えてみると20本以上!
このダルさも朝になれば楽になっているのが有難い。
 
17回目
この日、同じ病気でわたしの直前の予約時間の人の治療が終った。「ご卒業、おめでとうごさいます」と声をかける。私もあと2週間だ。
 
ダルさはだんだん酷くなる。お肌の状態が悪くなってきた。腋の下は赤黒いし、自慢?のデコルテラインも無残だ。
 
放射線は肌の窪んだ場所に強く当たるらしい。だから手術の傷跡などヒドイことになってきた。薬で症状を和らげることもできるが、最終的な仕上がりは何も塗らない方が良いとのこと、見た目が悪いだけで時折ムズ痒いぐらいだから、ガマンできないことはない。
 
18回目
ダルさとお肌の状態はかなり辛い。回診のときに田中先生は「あと何回?ガンバレ」と激励してくれる。も2/3は済んだんだ。
 
19回目
外出のときに胸の補正の必要がなくなて喜んでいたら、回診で「腫れている」と言われる。折角ボリュームが戻ったと喜んでいたのに。腫れたままでいてほしい。
 
20回目
お肌の状態が日に日に悪くなってきて、前夜から涙目になっている。痒みや痛みのせいではない。
 
朝、大平先生が「どうですか?」と来られたとき「弱気モードです」と訴え、「放射線、40グレイで勘弁してほしいぐらいです」と言うと、それは放射線科の診察のときに・・・(モゴモゴ)と逃げられた。
 
治療を途中で止めることができないのは百も承知で言っているのだ。逃げずに宥めてよ。私はワガママな患者なのだ。
 
その後、回診のときに田中先生は「痛々しいなー」と言われる。気持ちが滅入ると言うと「そっかー、落ち込んできたかー」と、これまたアッサリ言われる。「若い女性にとって、このお肌の変化は耐え難い」と言うと、礼儀正しく無視された。関西人なら違う対応があってもええやんか!
 
21回目
もうガマンの限界!皮膚の剥がれるピリピリした痛さに耐え切れず、薬を出してもらった。治療のない週末に少しでもお肌を回復させておこうという作戦だ。
 
22回目
今日も含めてあと3回!
照射部位はくっきり赤黒くなっていて、回診のとき「派手やなぁ」と言われる。前週の「痛々しい」より明るく聞けるような気がする。
 
朝、大平先生に薬の成果を聞かれ「ピリピリ感はマシ」と言うと、パジャマの襟元から覗き込まれた。思わず「そんなに覗き込まんでも(見せるがな)」と言うと「スミマセン」と照れたように笑ったのがカワイイではないか。
いつもは「照射部位を見たい」と顔に出るので察してお見せするのだが、退院も近づいたので「これも勉強」と敢えて黙っていたのだ。
 
最終回(25回目)
待ちに待ったリニアック卒業の日!
気分的には、20回目以降が辛かった。やはり25回は長い。
 
わたしの場合は皮膚症状が強く出てしまったようで、「これだけ色づいた人は久しぶり」と技師の方に言われる。(計算通りに照射できていることが一目でわかるので、ある意味安心だけど)厚かましく確認したのだが、私の若さと症状の強さは無関係らしい。照射後すぐに冷やしてコレだから、外来でしていたらどんなコトになっていたか・・・。
 
診察をしてもらって放射線科の治療は終了するのだが、担当医が検査中のため一旦病棟に戻ることにする。いつものように冷やしていると「ここまで来ちゃいました」と、放射線の担当医が来られたのでビックリする。まさか病室で卒業式をしてもらえるとか思わなかった。
 
病気が病気なので、リニアックは決して楽しい気分で通えるトコロではない。が、明るい雰囲気の中で治療を受けることができ、非常に有難かった。(スタッフが無愛想だったり冷たかったりしたら最悪だと思う)そのことにあらためてお礼を言い、「嬉しかったけれど、戻るつもりはありませんから」と言うと、「二度と顔を見ることがないように願とります」と返される。
 
放射線の初日に胸に照射の目印の線を描かれ、上から透明テープを貼られたのだが、そのテープを剥がすことにする。これは4箇所あり、皮膚症状の強い場所にある2枚は「剥がすと皮膚もついてくる」と警告されていた。それ以外の2枚を剥がす。ゴミ箱へ直行!テープの下にあった皮膚が喜んで呼吸を始めた感じがした。
 
翌日は出所の日。あ~娑婆だ!!でも10年の執行猶予は忘れちゃイケナイ。
 
退院後の外来は3ヶ月に1回ぐらいかなーと思っていると「頻繁に来ることないよ。1ヶ月に1回ぐらいかでね」で、次週の外来を予約しておくように言われる。私の感覚では「月1回」は充分「頻繁」なのだが。
 
とりあえず、1回戦は勝った。試合再開にはさせない。試合が再開すれば勝ち目はないいのだから。
術後14日で放射線を始めることになる。まず放射線科の受診。レントゲンの撮影室が並ぶ入り口付近と違い、奥の方は人影もない。かなり以前のことだが、最も患者の死亡率が高いのは放射線科と聞いたこともあり、先入観として「イヤな感じ」がある。
 
この「人影のない奥の方」は、リニアックの治療室があり「治療を受ける人以外立入禁止」とわざわざお札が立っている禁断の一角だ。たま~にそこで待っている人を見かけることがあったが、大抵、目線が下向きで影が薄いというか・・・。私もその一人になるかと思うと益々イヤな感じだ。
 
存在すら気付かなかった小さな診察室で治療計画を立ててもらう。担当の医師はかなり若そうで、実際に照射を担当する技師の方も若そうである。先入観を覆すほど雰囲気は良い。
 
照射予定は2グレイを25回。年末・年始が入るので他の時期より期間が長くなってしまうが仕方ない。それでも12月29日と1月3日に治療を入れてもらうことができた。
 
「リニアック」って何?思わず聞いてしまった。従来のコバルトなどと違い、線源となる物がないらしい。発電機のようなものかしら。放射線の種類としてはX線になるとのこと。けれど普通のレントゲンなどで使うのとは線量がケタはずれに違うらしい。ちなみに「グレイ」は医療用の放射線量の単位で1グレイは100ラド。テレビ等でよく耳にする「シーベルト」は医療用以外に使う単位。統一した方が便利だと思うけど。グレイとシーベルトとの換算は可能だが、換算率は「学生の時以来使っていないから忘れてます」とのこと。
 
と、簡単に説明してもらったのだが調べてみると・・・
放射線の物理的な量を表す単位が「グレイ(Gy)」。放射線が生物に与える影響は、放射線の種類によって違うため、放射線が人体に与える影響の強さを表す単位として使うのが「シーベルト(Sv)」。たとえばα線は人体への影響が大きいため1Gy=20Svとなるが、X線やγ線は1Gy=1Svとなるようだ。
 
ちなみに・・・事故等で短時間に被曝した場合、致死量は公的には7Gyだそうでだ。だったら50Gyってかなりの線量だ。
が、医療用では照射部位が限局されており、何回にも分けて照射するので公的致死量の7倍以上の照射ができるのだ。イメージとして100℃のお湯がバシャッとかかるのと、45℃のお湯が1時間毎に3回かかるのと・・・って感じかな?
 
照射角度の計算のために胸のCTを撮ってもらい照射位置を決めるのだが、これが長い長い。右腕を挙げた状態でいるのがキツイ。もっとリハビリを頑張れば良かったと今更ながら反省した。
 
しかし・・・上半身の衣類を取って右腕を挙げ仰向きに寝ているってかなりマヌケな状態だ。この上、先ほどの医師と技師の2人組が、お腹あたりの両側からお互いの頭をくっつけるようにしたわたしの胸を眺めている状況は、まるっきり伊丹*三監督の映画のシーンのようだ。腕も痛いけれど笑いを堪えるのが非常に辛かった。言うまでもなく2人とも見るからに真剣だったので(実際、乳腺以外への被曝が少なくなるよう努めてくれていたのだ)そんな時に当の患者がゲラゲラ笑うワケにはいかない。やっと照射角度、位置が決まったらしく胸にマジックで線を書かれる。
 
次はリニアック室へ入って再確認・・・なのだが、微妙に合わないようだ。どうやら部屋の温度によっても変るらしい。技師&医師が又しても(文字通り)額を寄せ合って位置を決め、またマジックで線を書かれる。もう私の胸は真っ黒だ。
 
照射そのものは2~3分で済んで、この日のメニューは2時間がかりで終了!あと24回だ。夕方以降、妙に身体がだるい。
 
2回目
照射だけなら10分もかからなかった。朝10時台に放射線科へ行くのが仕事になる。この日も含めて24回、「治療を受ける人以外立入禁止のエリアで待っている人」になるわけだが、他からは見えない場所に職員の描いた絵などが飾ってあり、ナカナカ面白い。視線下向きで影が薄いなんてトンデモナイ!
 
照射後、病室に戻り濡れタオルで照射部位を冷やす。看護師さんが保冷剤を用意してくれているが、範囲が広く凸凹もあるので濡れタオルの方が扱いやすい。回数を重ねると、要領が良くなってくる。
 
タオルは濡らして4つ折・ビニール袋に入れて冷蔵庫で冷やしておく。(2組つくる)放射線科から戻るときに保冷剤をもらって、タオルの間に入れビニール袋のままで冷やす。温かくなれば交換。
 
この方法は楽だった。特に治療の中盤以降は、放射線科から戻る途中で歩くのも努力が要るぐらいダルくなっていたのだ。
 
さて2回目の照射が終った午後、ダルイダルイ。頭が重いしむかつくし、まるっきり二日酔い状態だ。(後日「放射線宿酔」といわれる状態だったことがわかる)
 
照射のない週末は、朝から気分良く楽に過ごすことができる。文字通りの「休日」に身体が喜んでいるようだった。
 
3回目
外は大雪だが病院は暖かい。雪の中を出かけなくて良いだけでも、放射線治療のために入院していられることに感謝しなければならない。
 
照射後のダルさは相変わらず。折角キレイにしてもらった胸だが、「放射線をすると、水が吸収されることが多い」という主治医の予言通り、やや凹んできたぞ~(ーー;)
 
6回目
週末に近づくにしたがって、ダルさからの回復に時間がかかるようになってきた。6回目予定のこの日は、翌日から三連休になる日でもあった。
 
4日前からの大雪はこの日も続き、朝から照明がチラチラしていた。何か怪しいな~と思いながら放射線科に行くと、妙に慌しい。「リニアックもMRも落ちまくり!最悪!!」などと聞こえてくる。PCの調子が悪くなったのかと察しをつけて、私の前の予約時間の方とおしゃべりをしていた。同じ病気で市内の他の病院で手術を受けた方だった。温存でドレーンを入れず、術後8日で退院されたそうだ。で、放射線に片道1時間半かけて自分の運転する車で通っておられる。しかもこの雪道を。もう頭が下がる。
 
予約時間を30分も過ぎたころ、「瞬間停電が何回もあったので、PCがイカれてしまいました。復旧は週明けになるかも・・・」と説明があった。ますます入院していた良かったと思う。
 
そして週明け、リニアック復活の朗報が入る。この日復活しなければ5日間隔が空くところだったので、心底ほっとした。
 
3連休の間に業者の方がデータの復旧まで頑張ってくれたらしい。停電でPCがイカれた施設はココだけではないのに。目に見えないところで、多くの人たちに支えられて治療を受けることができていると実感した日だった。
 
9回目
この日から年末年始のお休みになる。が、リニアックのお休みは1日遅い。
 
照射後の気分の悪さはマシになっているが、疲れやすさ、ダルさは酷くなってきている。シャワーのときに頭と身体を洗えないぐらいだ。だからシャンプーは朝の気分の良いうちに洗髪台で済ませている。
 
皮膚の症状は、ちょっと肌理が粗くなったかな?という程度。照射後に冷やすのが気持ち良い。真夏の外来だったら大変だと思う。
 
この日も照射後冷やしていた。とても人様に見ていただける格好ではない。すると福田先生が入ってくるではないか!「ちょっと腕挙げてみましょうか」って、この体勢で?今更恥ずかしがる年齢でも相手でもないが、少々アセッた。
 
(大晦日)
年末年始といえども外泊は2泊が限界とのことで、大晦日から家に帰ることにした。病状や治療の都合から病院で年越しする方も少なくない。同室の方は2人とも残留だ。帰るときに「良いお年を」と言いかけて絶句した。1ヶ月前に入院したばかりの病院で迎えるお正月が「良い」なんて言えない。
 
「来年は今年の分も良いことがありますように」
CT・骨シンチ以後、急に遠隔転移が怖くなった。1週間入院・手術を遅らせたのがとんでもない間違いのような気がしてきたので、病棟のベッドに着いたときは正直ホッとした。
 
主治医は田中先生。イケメンでなく残念だが、同室の方によると「笑顔に癒される」とヨン様以上の人気だそうだ。研修医の福田先生も担当医として紹介される。(こちらもイケメンでなくて残念)
 
今日のメニューは急遽入った心エコーのみ。はっきり言ってヒマだし、入院したものの病人という気もしない。
 
ヒマをもて余したまま手術前日になる。昼間は特にすることもないので、外出許可をもらい家でゆっくり入浴する。「娘と一緒にお風呂に入りたい」と言ってもらった外出許可だが、よく考えてみると当の娘は学校から帰っていなかった。
 
夕方、手術室の看護師さんが説明に来られる。術前の処置から術後の予定まで、とてもわかりやすい表まで用意してある。
 
夜、田中先生から手術の説明を受ける。気になる遠隔転移については特に話がなかったので、大丈夫だったんだろうと勝手に解釈する。(もっとも遠隔転移があれば、手術の話にはならないだろう。)基本的に温存。但し広い範囲で断端に癌細胞が見られた場合は、先生のお薦め通り全摘でお願いする。医学でなく国語の問題なのだが、”広い範囲で断端陽性”というと、温存のガイドラインにある”広範な乳管内進展がない”にひっかかってくるような気がするのだ。温存の場合、6cmも刳り貫いたあとのシルエットが気になるが、水を入れて上げ底すると聞き目が点になった。「水」ってねぇ・・・。
 
麻酔科医は「若いメガネをかけた男前」か「若いメガネをかけていない男前」のどちらかと聞いていたので、密かに期待していたのだが、「麻酔科医の都合がつかないので、麻酔は外科でします」とあっさり言われる。「男前」にお会いしたかったなー。
 
手術当日。手術は10時前ということで、手術前恒例の大嫌いな処置のあと、着替えて記念写真などを撮っているうちに、お出かけの時間になった。
 
意識鮮明なまま手術室に入り、偶然大好きな曲「カバティーナ」が流れていたので耳を傾けていると・・・目蓋が重くなってきた。前回の手術ではすぐに意識がなくなったのに、身体が動かなくなって・・・息苦しくて気がつくと、呼吸できていない!!筋弛緩剤から先に効き始めた?文句を言おうにも声が出ないし身体も動かない。「ここで死んだら化けて出てやるー!」パニックになりかけて気付いた。各種モニターは取り付け済みなので、呼吸できないことはわかってもらえるんだ。化けて出るのは中止して極楽往生を目指すことにする。でも、意識があるうちに手術が始まったらイヤだなぁ・・・と思っているうちに、目の前に金色の光が広がり、その光に向かって意識が跳んだ・・・
 
「済みましたよ。お疲れ様でした」(わたしは寝ていただけ。”お疲れ様”はあなた方でしょう)言いたいけれど声が出ない。辛うじて出せた言葉は自分でも思いがけないものだった。「残せました?」「大丈夫。予定通りにできたから」胸と腋に激しい痛みを感じた。痛む場所から全摘でないことはわかったが、追加切除はされたのかどうか・・・。確認したいけれど声が出ない。
 
その後、鎮痛剤を使ってもらったので傷の痛みは殆ど感じなかったが、右肩が非常に痛い。撫ぜるか押さえるかすると軽くなりそうな痛みだが、生憎左手は血圧計と点滴で動かせない。右手はもちろん固定されている。
 
夜、11時半ごろ来られた福田先生に「押さえたら楽になりそうなんですが・・・」と言うと「あぁ、良いですよ」・・・って、そういう問題ではない。この血圧計、何とかならない?
 
付き添う気満々だった親には「大丈夫だから」と帰ってもらったのだが、とても不安になってきた。
 
背中が痒くなったらどうしよう?
 
長い夜が明けるとウソのように楽になった。掻けないところが痒くなることもなく、鬱陶しい尿の管も取れて食事もいきなり普通食。でも右手が挙がらないので食べにくい。
 
傷を見るのが怖かったが、ガーゼ交換のときに覗くと意外なほど小さい。ガーゼ交換に来られた三木先生にそう言うと「田中先生が頑張ってくれましたから」と言われる。
 
その三木先生が麻酔を担当されていたのだが、後から感想を聞きに来られた。特に意識のなくなる直前の状況について。思わずニヤリとしてしまった。折角なので正直にお話する。モチロン化けて出ようと思ったことは抜きにして。すると「もっと良いタイミングで眠らせてあげれば良かったんですが・・・スミマセン」と言われる。ここまで直球で来られると非常に好感が持てるのだが、こんなに正直で良いの?三木先生。
 
手術から2日後、リハビリを始めるように言われる。田中先生はリハビリが進みやすいように、痛くて90度も挙がらない腕を引っ張ると言われる。「痛そうだからイヤです。遠慮します!ご辞退申し上げます」キッパリ言ったのだが、居並ぶ先生方の失笑をかっただけだった。マンモといい、この腕引っ張りといい、まるで中世の拷問だ。
 
この日、点滴も取れた。卵巣を摘出したあと、きっちり食事が摂れていたのに2週間も点滴されていたのと大違いだ。翌日2回、抗生剤の点滴があるので針は残してあるが、点滴スタンドを連れて歩かなくて良くなった。
 
 
術後1週間。朝の回診のときはそんな気配は全くなかったのに、昼前にいきなり「ドレーンを抜こうか」ということになった。腋から出ているドレーンは、廃液パックにつながっていてベッドから離れるときは、このパックをポシェットに入れてぶら下げる。このポシェットは財布がちょうど入る大きさなので、売店に行くときなど密かに便利と思っていた。だがドレーンの入っている鈍い痛みは、とりたてて言うほどのものでもないが”しんきい”のだ。
 
だからドレーンを抜くのは歓迎なのだが、抜いた後も滲出液が溜まり、3回もそれを抜くことになった人もいた。後から抜くのもとても痛いようで、そんなことならドレーンの方がマシだし・・・それにドレーンを抜くのも痛そうだ。
 
「痛そうですね・・・イヤだなぁ・・・」控え目に言ったが、取り合ってもらえるワケがない。「ハサミ」と声がして「痛ッ!!」一度叫ぶと「ハイ取れました」「え!もう?」「そう、期待に反して悪いケド」
 
往生際は悪かったけれど、取れてみると非常に身軽になったと思える。抜いた後は少々痛いけれど、数日で治まるに違いない。
 
術後10日目。身軽になったのでダメモトで外出をお願いしてみると、時間制限なしでアッサリOKだった。8時間ほど家に帰る。
 
ピアノでハノンを30分。エレクトーンを断続的に1時間半ほど弾くが、やはり右腕の痛みと筋力が落ちているので集中できないし、音のコントロールもしにくい。リハビリをしっかりしなければと思う。
 
リハビリといえば研修医の福田先生はウマイ方法を思いつかれたようだ。毎朝、腕の挙がり具合をチェックに来られるのだが、わたしは上に挙げるときに肘を曲げたり・・・と誤魔化しに余念がなかった。それがバレて以来、「腕、挙げてみましょうか」と言いながら自分の手で支えるふりをして、しっかり引っ張っているのだ。気付いたときは「ヤラレタ!」と思った。
 
術後14日目。傷のテープなどが取れてスッキリ!する。水で上げ底をした仕上がりはナカナカのもので、傷跡もとてもキレイ。まさかこれほどの仕上がりになるとは思わなかった。この水が吸収されずに残りますように。
 
病名まで知ってお見舞いに来てくれる人の視線は胸にくるのだが、何も補正していないと言うとビックリされる。非常に良い気分だ。田中先生に「満足度は高い?」と聞かれ「モチロンです」と答えると「宣伝しといてね」
 
宣伝って言われても・・・誰に何てすれば良いのだろう???
 
 
さて気になる成績表(病理結果)は術後3週間で出た。ハッキリ言ってガン告知以上にショックだった。
 
「ホルモン(-)」これは術後の全身療法としてのホルモン治療がほぼ無効であるだけでなく、再発リスクも(+)と比べてやや高くなるということらしい。ホルモン療法は5年程度続き、子宮体ガンのリスクも増えるので、子宮体ガンの痛い検査が大嫌いな私にとっては有難い話かもしれないが、「予後」で見ると喜んではイケナイ。
 
良い材料はリンパ節転移がなかったことで、ステージとしてはⅠになるが・・・他の要素も余り良くなかったしな・・・。ホルモン療法ができないので、標準治療では化学療法推奨になるが、田中先生は化学療法もイチオシではないようだ。それも無駄ではないが、再発率を「気持ち」下げる程度のモノなので、副作用対効果を考えると何もしなくて良いと言われる。「3ヶ月毎ぐらいに元気な顔を見せてもらって、それが10年続いたら治ったことになるから」と。その「10年」が無事に過ぎれば良いのだけれど。
 
考えてみれば「無治療も治療のうち」化学療法をせずに体力・気力を蓄えて免疫力を上げるように心がければ、抗癌剤でヘロヘロになるより良い結果が得られるのかもしれない。
 
絶対にあと30年は生きていたい。元気で。でないと、娘の20代は祖父母の介護で終ってしまい、わたしの墓参りにも来てくれないに違いない。
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HN:
papagena
性別:
女性
職業:
団体職員
自己紹介:
次々に訪れる
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だから生きているって
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前向きに受け止めて

しなやかに したたかに 
過ごしたい


★西日本在住
★40代前半

☆本と音楽が好き
☆家事はキライ
☆蚊とヘビと痛いのは
       大の苦手
☆好きな場所 
   東京ディズニーシー

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